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AR(拡張現実)と混同されがちなVR(仮想現実)、使い古された技術に可能性はあるか[コラム]

VRAR(拡張現実)と混同されがちだが、現実にコミットしやすいARに比べ、世界を構築する必要があるVRは、ゲームの世界やPRの世界でしか、その可能性を見せられていない。実際、現実を模倣する必要があるVRは、ARほどのSF感、未来感は薄いのだ。

しかも、その考え方やゲームとしての表現手法は、今から25年前には既に作品として流通し、その一部は現在でもエンターテインメントとして通用している。ある意味、枯れた技術が、より大規模な見せ方を得てかつてのコンテンツを反復しているだけという考え方もできてしまう。では、VRに未来はないのか。その可能性をどう考えれば良いのか。
VRがバーチャル・リアリティの略だというのは、もはや常識となった。しかし、かつて、90年代の始めにパソコンが一般への普及を見せた頃、その可能性を見せるコンテンツとして、バーチャル・リアリティを意識した作品が数多く作られた時代には、まだ、バーチャル・リアリティという考え方自体、ほとんど知られていなかった。

その中で、本当に多くのバーチャル・リアリティ的作品が作られ、それがそれなりのセールスを記録した時代があったのだ。もっとも、マシンパワーが追いつかず、動画も小さな画面でしか表示できなかったこともあり、バーチャル・リアリティがどういうものかを理解させることなく、それらは一人称の3Dゲームとして受け取られた。

それはそうだろう。マウスで画面の右をクリックすると右を向き、左をクリックすると左を向く。そして3Dで作られた世界を散策し、そこに用意された謎を解く、という作品が中心では、それまでのRPGとほとんど変わらない。一人称視点の3DRPGもウィザードリーのようなテキストベースのゲームで既に実現していたのだし。

しかし、そのレガシーな表示環境の中で作られていたバーチャル・リアリティ的作品(当時は、マルチメディア作品と総称されていた)は、プリミティブでシンプルにしか作れなかっただけに、VRの構造と特性をしっかりと把握して作られていた。だから、あれから四半世紀経った今でも、当時の作品の一部は、そのままスマホ用ゲームとして移植され、有料ゲームとして販売されている。
「MYST」や「GADGET」は、その代表的なタイトルだろう。これらを遊んでみると分かるのだが、現在のVRは、これらの作品と基本構造や表現方法は、実は全く同じ。それを、ゴーグルとヘッドフォンによって、ユーザーの動きと連動させ、より没入感とリアリティを増したものと考えれば間違いない。

だから、VRタイトルで最も重要になるのは世界の作り込みだ。「MYST」や「GADGET」が今でも通用するのは、その世界の作り込みと表現方法が優れているからだし、現在、プレイステーションVRで人気が高い、「バットマン アーカムVR」や「THE PLAYROOM VR」が、スムーズにゲームに没入できるのも、世界の作り込みが丁寧で破綻がないことが大きい。
ただ、これはマルチメディア時代も今も変わらないことだが、VRには大きな欠点というか、どうしようもない制約が一つある。それは、人が考えるリアリティを踏み越えられないということ。そのため、映画的な手法が使いにくいのだ。

VR作品を見た時に感じたことだが、クローズアップや視点の移動は映画ならカット割りで済むものの、VRの場合、ユーザーの移動を必要とする。そうしないと世界の中のリアリティが崩れてしまうのだ。もし、ズームなどを使うなら、そういうゴーグルを被っているのだという説明が必要になるし、その操作はユーザーに委ねられることになる。

ズームならまだゴーグルの機能で説明がつくが、例えば、目の前に座っている人の姿を横から見たいと思ったら、VRの場合、自分が歩いて、相手の横に回り込まなければならない。一部のVR作品では、舞台の移動や視点の移動を暗転で処理していたが、それも良し悪しというか、リアリティが損なわれることに変わりはない。

この、世界を丁寧に作り込むほど、面白くてリアルな作品になるけれど、リアルであればあるほど映像的な演出を受け付けない、というのは、作品作りにおいて、大きなネックになる。
マルチメディアの時代は、リアリティが現在ほど確保できなかった分、例えば、高速に、どんどん移動する(つまりどんどんマウスクリックする)事も、さほど作品世界を壊すことが無かったけれど、現在のリアリティレベルだと、視点の移動が速すぎるのは視覚的に厳しい。

また、「歩く」という動作は、実際に歩かせるわけにはいかないから、今でもコントローラーのクリックで実現するわけで、ますます「移動」に関しては繊細な演出が必要になる。このあたり、多分、VRとしての文法がこれから作られていくはずだが、その文法がコンテンツを面白くする方向になるかどうかは分からない。

先日、あるVRコンテンツを体験した。それはホラー的な作品だったのだけど、角を曲がっても何も起きず、何故か視点がやけに高いまま、まるで浮遊しているように移動し、しかし、ユーザーはあくまでも一般の人間という設定で、単に奥から走ってくる少女に刺されるというだけのものだった。かなり丁寧にCGが作り込まれていただけに、その仕上がりの残念さが際立ってしまった。
しかし、この作品、歩いているリアリティがあって、怖がらせるタイミングを間違えなければ、十分面白くなったはずなのだ。失敗は、ホラーの基本が分かっていなかったことと、VRの世界では、1人称視点のユーザーがなるべく自分の視界だと納得するような視界と動きを提供しなければならないということ。たったこれだけのことさえ、まだ常識になっていないのがVRの現在なのだ。

結局、現在のコンテンツ製作は技術先行でソフトは後から付いてくるという事実を見せつけられているようだが、新しい表現というのは、多分そういうものだろう。

とはいえ、人間の感覚というのは、本当にいとも容易く騙されるもので、例えば、プレイステーションVR用のゲームに「サマーレッスン」という、プレイヤーが女の子の家庭教師になるゲームがある。このゲーム、CGのレベルはさほど高くないため、世界のリアリティはあまり感じない。しかし、教え子が立ち上がって自分の横を通り過ぎて斜め後ろから身を乗り出す、といった際に、本当に横に誰かがいる気配を感じてしまうのだ。

そんなことは、もちろん無い。バーチャルというのはそういうことだ。しかも相手はリアルではないCGなのに、そこに、しっかりとした「誰か」を感じることができる。これは演出と音響の問題であり、世界の作り込みではない部分でのVRの可能性。さらに恐ろしいことに、そんなCGの教え子に、段々感情移入してしまうのだ。何というか、「そこにいる」感じがとても強くなる。
結局、VRも他のコンテンツ同様、人の想像力に訴えかけることが、可能性につながる。そしてVRは、それを成しやすい手法だから、これからの可能性に期待がかけられるのだ。

とはいえ、未だにVRとARが混同されているきらいはある。ストックフォトのVRの写真の中にも、それはARだ、という写真も混ざっているのが現状だ。ゴーグルを付ければVRというわけではない。

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